其の4)癌は本当に侮れない。福岡博多渡辺通りホテルニューオータニ。
こんにちは、マルスタジオ福岡店の田中です。
遺影写真がほんとに大切。という気持ちになった経緯がもう一つあります。
遺影写真について其の1をお読みくださると経緯がわかります。
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私は10歳年上で医療者の姉がいます。正確にはいました、、、。
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左乳房にステージ4のガン宣告 → 全摘手術 →
放射線治療開始 → 2ヶ月後に亡くなりました。
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父は第一子の姉に将来の期待といっぱいの愛情を注いでいた。と母が話していました。
私から見ても、父は姉に信頼を置いているな。というのを幼少ながら感じとっていました。
姉も父の期待に応えれるように、立派な大人になれるようにと勉強をし、彼女の理想とする職業に就きました。
そして2人の間にある強い絆は、真実である。と揺らぎないものになったのは、
姉が亡くなったなくなった日です。
姉が亡くなったのは、
父の1周忌を迎えようとする2日前でした。
午前に姉の葬儀が終わり、
午後は父1周忌を迎える。という家族にとって現実なのか夢なのか地に足がつかない経験をしました。
父が「おいでおいで。」と姉を手招きしたのか、姉が父を追いかけて行ったのか不思議な1日でした。
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姉は自宅療養に入り、桜が満開の日に旦那さん(義理兄)とピンク色に咲き誇る桜並木を散歩し、『また2人で美しい景色を観れるなんて幸せだね。』と散歩をした後、
近所にある老舗の銭湯に行き、春の行楽弁当を夕食に。と弁当の蓋を開けた時に体調が悪くなったそうです。
すると姉は、『お弁当を食べ損ねた。』と返答しました。
それが最後の言葉。
義理兄は側にいたかったことでしょう。
そして、病院側からは『今夜は帰っていいですよ。』と言われたそうです。
病院側からはコロナのため断られました。
まさかの事は起きないだろうと、私たち家族には緊急搬送された連絡をしなかったのです。
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期待虚しく救急で運ばれた24時間後に姉は亡くなりました。お腹が空いていて、戦えるエネルギーがなかったのではないか、
喉が乾いていなかったかな。
いろいろ考えると苦しくなり涙が止まりません。
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